2016年08月03日

だから「おとうさん」はかっこいい

ふるーい記憶。

実際に起こったことなのか

ただの私の夢と混同しているのか

その私が幼くて

私も判別が付かないぐらい昔の話。



小学生にすら上がっていない私は

良くわからないけど足を滑らせたのか

波に足を取られたのか

不意に岩場から海に落ちて溺れた

が、すぐにお父さんが飛び込み助けてくれた。

あっという間のことで

多分だから私は海が怖いとか水が怖いとか

そんな気持ちすら生まれなかった。


だから、「お父さん」はかっこいい。

これが実際にあったことなのか

幼い私が見た夢なのかわからないけど

おぼろげなその記憶が与えた印象は確かに私の中に残っている。

だから、「お父さん」はかっこいいんだ。


父親になることに憧れを抱いていたのも

息子や娘にちょっと格好付けたい気持ちになるのも

きっと私が「お父さん」がかっこいいと信じて疑わない何かを抱いたから。

妻に何かと支えられてようやく「お父さん」やってる私だが

少しは子供たちに伝わるだろうか。


そういえば、息子にとって私は

ゾンビより強いらしいっけか?(笑

ハッタリでも、ゾンビぐらいなんとかしてくれる「お父さん」でいたいと思うのは

きっと、私にとって「お父さん」がかっこいいほうが良いからなんだろうな。



願わくば

息子にも将来、「お父さん」になって、それをまた次に繋いでいってくれたらな・・・。

とかなんとか思う、今日この頃。
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posted by ぽて at 04:50 | 兵庫 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 相・映・想・記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月25日

親が工夫を諦めていることが原因、って場合だってある。

うちの息子は歯磨きが嫌い。

細かいことを言えば

歯ブラシを口に入れることに抵抗があるわけじゃない

歯ブラシを渡すと、自分で口に入れることはするし

こっちの見よう見まねで歯ブラシ動かしてみせたりはする。


でもまぁ、歯を磨かれるのは嫌。

人から口に歯ブラシ入れられるのは嫌だから結構暴れるし喚く。

だからまぁこちらも息子がっちり固定で

嫌がるところを無理矢理歯を磨く。

これがまぁ長いこと私と妻で当たり前のことに成っているわけで。


一応、工夫をしていないつもりはなくて

歯磨き後のご褒美にハキラをあげたりとかはしているけども

別に歯磨きされること自体を嫌がるのは変りない



それを踏まえて一昨日の話。

どういう経緯かはわからないけど

妻が、息子の好きそうな車の音等を口ずさみながら歯磨きをした

ウーー!とか、ピーポーピーポー!とかガタゴトガタゴトとか。

息子はアハハハとか声だしてニコニコしながら歯磨きされていた

おぉ、これはっ!!


親としては歯磨きはちゃんとしてほしい。

嫌がることを無理矢理したいってことはないけども

無論、必要であればする。

嫌ってことが解消出来るのであれば勿論それに越したことはない。

ハキラ上げるのも工夫は工夫だが、確かに歯磨きそのものに対しての印象を変えるものではないわけだ。

少し、何か糸口が見えた気がする!


昨日の歯磨きはそれを踏まえて

最初から色々擬音を言いながらやってみたものの

もともと息子が不機嫌だったせいもあるのか

毎度のごとく嫌がるなか無理矢理になってしまったけど・・・


私も妻も、要するに親が工夫を、改めてまた考えるようになった。

これは、進歩だと思う。


歯磨きに限ったことではなくて

物事に行き詰ったら見方を変える。

これって誰でも知ってるし言うは簡単。

でも、結構むずかしいよね。

今がその行き詰った瞬間だと自覚することもなかなか無いし

行き詰ってるときはそのことに気づきにくい。

周りが見えなくなってるから行き詰ってるわけだし。


こと子供のことに関しては尚更

親の方が色々と元々の知識や応用ってものを知っているはずなのだから

親が工夫を諦めたら大体、そこで改善って止まってしまうよね。

そんなことを改めて考えさせられました。

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posted by ぽて at 03:54 | 兵庫 | Comment(1) | TrackBack(0) | 相・映・想・記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月05日

ちょっと真面目に話してみる。増税の話。

まぁ平たく言えば私も前回の選挙で自民党に投票した身。

予め自民党は増税の意思を掲げていた党。

文句を言える立場じゃぁないことは重々承知ですが。

こういうことはちゃんと言いたい、って話を。


・・・まぁ増税については曖昧なこと言ってる党多くて

はっきり否定は共産党ぐらいのイメージだったけど。


さておき。

法人税は軽くする。これは大胆で良いと思います。

これで会社が設備投資や従業員に向けてかけれる金が増えるなら、ですが。

まぁ設備投資で効率化した結果、人を減らして人件費節約とも言えますが

いかんせんジリ貧で企業が新しいことを試せない発展を目指せないところばかりでいるよりは

良いのかなぁと素人ながらには思います。

そんで国は税収減らす覚悟あるわけですよね。一応。


消費税に関しては正直、熟考したっていうのが

実際に低所得者層や、今デフレスパイラルで起こっていること見えてるのか

不安になるのが本音です。

お店側が基本価格触ってなくても

消費者側が支払う額が上がり、

結局値上がりしたと思うのが消費税。

税込表記だけでなく税抜表記をしたところで

それは変わりません。

収入が別段変わらないまま

目の前で値段が上がるのが先にくればまぁ

勿論、財布の紐かたくなるわけで。


そんなときに価格を売りに顧客確保に力注げるのは

体力のある大きな企業ばかり。

ぶっちゃけ現状ジリ貧の企業にゃそんな体力勝負付き合えません。

多分、値上げしたらイ●ングループとかは

ここぞとばかりに消費税分値引きセールとかぶちかましてきますよね。

西●なんかはまぁ自分等でいっての通りKYなんで

こういう価格競争しかけられたらやるでしょうね。


そういうことやるとまぁ・・・

その消費税を増やした分を安くする負担どこが負うかっつーと

まぁ、企業っつーより下請けですよね・・・

この条件で用意できなきゃ仕事他にたのむわー


先日発覚したイ●ングループに出荷して販売していたお弁当に

本来はお弁当用につかってはいけない米を使っていたのが発覚して

ニュースになっていましたが

…勿論、消費者の信頼を損なう不正が正当化されることはないですが

そういう決断をする魔がさしてしまう状況というものにもちゃんと目を向けて欲しい。

仕事他にいったら会社の運営は勿論自分の稼ぎも危ういし

従業員とその家族の生活守る責任あったら・・・ねぇ。


増税したら私は多分、下請けの負荷が大きくなる

企業の格差がひらくと考えるのが自然な流れかなぁって。

すでに企業として大きいところが安定して上向くだけで

社会全体として経済的な成長は正直望めないような。

アベノミクス効果って

とりあえず政治的にお金の話が上手くいけばそれでいい話なんすかね・・・

って気分になってしまう。


勿論、大企業がひっぱって社会全体が成長すれば・・・って考え方あるけど

今って企業はでかいほど海外に工場やら持とうとして

大企業が成長したからって日本の雇用増えるって気はしないし

大企業が中小企業ひっぱりあげるよりも

踏みつけ兼ねない・・・っていうか

業種によっては完全に踏みつける力がでかくなるわけで。

成長以前の話じゃないそんなの。


あとはまぁ、3%増税頼るってのきいて

政党助成金やら政治家の給料なりの見直しは

そっちに力入れる気なさそうなのも伝わりましたし。


大胆な政策っていうなら

法人税もいいのですが

消費税撤廃の方が消費が増えて経済が温まる見込み上がったんじゃないですかねぇ。

低所得者層にもちょっと贅沢をする切っ掛けを、って意味でも。


っつてもまぁ・・・3%増税は決まったんでねぇ。

言ってももう何にもならんけどさね。
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posted by ぽて at 02:09 | 兵庫 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 相・映・想・記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月01日

全てのことに理由がある?

全てのことに理由がある、なんて言葉があります。


私はこの言葉は、ある意味そうだとは思うのですが

この言葉を言葉そのまま理解するのは違うと思います。

この世界は理由のないことだらけ、って言われたら

私はそれもまた納得するでしょう。


理由って何か。

私が思うところ理由というのは

物事、状況、状態、性質、環境に対して

それを観た観測者が考え言葉に直し付与するもの

だと表現するのが一番適切だと思っている。


あくまで最終的に人が理解して成立するものである以上

その理由がその物事に予め備わっていようといまいと関係はない。

気を付けるべきは、「理解をする人」と「人が文字に直す」ということ。

そこで理由は人が見るパッケージとしての形を得るのだから。


理由は、観測者あって初めて生まれるのだ。

そしてそれを言葉に直す人の感性という、

人それぞれが物事を理解する上で必ず持ってしまう

偏ったフィルターを通って、言葉にされる。


一人の同じ人間を、見る人が違えば評価は色々出てくるように

一つの事象を色々考えて理由を導きだす人が何人もいれば

それぞれに違う理由が生まれるのだから。


例えば、本当はビビりながらも圧倒的に不利な戦いを強いられた人物も

苦肉の策を重ね世紀の逆転劇を起こしたとしよう。

その武勇は後の人に大きく称えられれば英雄らしく

勇気を持って立ち向かった、だのとより格好良く誇張される。

もしかしたら本人だって格好の悪いところは語らず

自分の作戦通りだっただの何だのと自分で吹聴していたかもしれない。

そんな情報が圧倒的に多い中で、あの逆転劇の起こった理由って何だったろうか

なんて考えたら、当然どう傾くかは目に見えているわけで。

人の手垢のつかない理由なんてないのだ。

もっと言えば人が言葉に直した物に、人の手垢のついてないものなんてないのだ。


いかに理路整然尤もで正しそうに書かれた辞書や新聞も

それを書いた人が必ずいる。

これは神様がこう教えてくれたものだよ、と書かれた内容も

それを自分の理解で言葉に直した人が必ずいる。

どんなに優秀で後世に名を残す学者が書いたものでも

あくまで一人の人間の解釈で書いたもの。



理由ってのは目に見える範囲、何処にでも転がっています。

あなたにとっての世界が広がる範囲であれば

それについて考えたときに理由は勝手に付いてきます。

ただ自分の認識出来る範囲の外には

理由なんてないのです。

まして人類なんてこの広い宇宙の地球というほんの一部でのみ生息していて

その外側の方が遥かに広い。

人類全ての人に共通して認識出来ていない世界はめっちゃ広いのです。

だから理由のないことなんてごろごろしてるとも思う。

まして地球内のことだってわかってないこと沢山あるんだしね。


よく、怒られている人が言われますよね。

なんでこんなことやった。理由を言えって。

実は対して考えてない場合なんて山ほどある。

でも、理由をその場に合せて、そのとき考えているわけで。

んで、怒ってる人が納得させる理由、

もしくは自分が自分の思うキャラクター像に沿った理由が生まれるわけで。

中二的な人にそれ聞いちゃったら

自分はそういうことやっていい人間なんだ思想的に発展しそうでとても嫌よね(ぁ


理由なんてもんは

なんとなく、でも残念ながら立派に理由なんですよ。

大してそのことについて考えたことなかったのなら。

立派に理由、というか適切な理由というべきかしら。

ぶっちゃけ自分がどんなやつかなんて自己診断の理由はロクなことないけどね(ぉぃ


身近な自分のことでも、考えなければ理由は付かないのです。

するとやはり、世の中に理由のないことはごろごろしている。


理由ってのは人の都合でぐねぐねと変化するのだから

新しいことが分かれば物事の解釈なんて変わるのだから

理由は何故か大事にされることがよくあるけど

案外、不安定なもんですよ?
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posted by ぽて at 15:22 | 兵庫 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 相・映・想・記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月01日

じぶんで選ぶことと、自分で選んだと思いこむことと。

常に人は自分で選んで行動している。

これは必ず。


どんなことであっても。

選ばされたとしても

誘導されたとしても

最終的に行動は自分が手足を動かしたなら

自分の決定の下。

逆らえなかったのも

逆らわなかったのも

残念ながら自分。


自覚が無くても、責任を負う気が無くても、覚悟が無くとも

選んだ以上は責任は付きまとう。


わかりにくいことかもしれないけど

だからこそ人は

選ばないことも選びながら

好む好まざる問わず

常、前進させ続けられる。

停滞いてるつもりでも、

周りの状況はどんどん変わっていく、

自分の残りの時間は減っていく。

止めているつもりでも進む。


それを踏まえて、最近怖いなぁと思う姿。

選んだつもりになっている、ということ。

人は自分がしている行動に対して、

していなくても現状に対して

後付けで理由をつけることをする。

今していることの自分への納得や周りのへの言い訳を

後からでも、作る。

そして作ってしまうと大体の人は

予め、そうだったというように錯覚する。


自分が意志を持って決めたつもりになる。

そして成り行きに理由を付けただけなのだから

確固たる意志も

自分で決めたという覚悟もない。


ちゃんと、決めていない。

自分で、自分のことを。

でも、自分で決めたと思いこんでいる。

決める為に、選ぶ為に、精査することもなく

自分の現状を肯定するのに都合のいい理由だけを固めたモノなのに。


責任は薄いし

覚悟は弱いし

でも自分が決めた自覚だけはあって

それに伴う理由づけはしてしまっているから

どうにも意固地になりやすい。


ね?

性質が悪い。


決める前に。

決まる前に、

ちゃんと自分のことちゃんと考えれている?


自分の決めたその理由、

最初にしっかりと自分で決めた覚えある?

後付けになってません?


後付けになってるなら

自分の為にまた精査し直すべき。

自分の視界を自分で狭めているだけだから。

本当に問題ないなら同じところに答えは同じところに戻ってくるはず。

する必要がないと思うのなら多分それは

うっすらと自分が間違っていることを疑っている。

きっと閉じた蓋が開くのが、怖いから。


・・・なのかもね。
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posted by ぽて at 01:45 | 兵庫 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 相・映・想・記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月30日

な。

その場の雰囲気の所為にするな

常識の所為にするな

一般論の所為にするな

正しいことの所為にするな

悪いことの所為にするな

友達の所為にするな

敵の所為にするな

仲間の所為にするな

親の所為にするな

家族の所為にするな

環境の所為にするな

教えた人の所為にするな

騙した人の所為にするな

どんな理由があってどんな経緯があってどんなに周りが悪くても

最後に自分が何をするか決めたのも何もしないことすらも決めないのも

自分だ。


自分に厳しい言葉を投げる人を敵にするな

でもなんて言葉を使うな

だってなんて言葉はつかうな

これから何かしなければ何も変わらないなら

これから何かを変えて行きたいなら

そんなのは自分の足を止める邪魔にしかならない



みんな当たり前のようにやっていて

自分を見失う邪魔なことばかり。

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posted by ぽて at 02:49 | 兵庫 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | 相・映・想・記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月24日

笑い声が聞こえるから。

多分のお話。

私は傍目には子供好きなポジションですが

勝手に子供がひっついてくるって感じなんで

自分からかまうっていう手段やイメージがありません。


男性は父親の自覚が出るのが遅い、

っていうのは素直に実感しました。はずかしながら。

子育てだからとか別として、

面倒事は面倒なんですもの。そりゃ避けたくもなります。

そこに世間体やら社会性やら責任やら

そういうものが絡んでくればやる人がやる。

しいて言うなら父性はそれをやってる内に芽生えるんだろうって思います。


私は面倒くさがり屋。物臭。

自分で言うのもなんですが・・・

その割には子供の面倒、自分から見ているとおもう。

それはなんでだろうってふと振り返る。


子育ては労力が大きく面倒。

仕事から帰ってからなんて特にね。

抱っこ求められたら脚疲れて座りたいのに座れない。

自分の時間つくりたくても寝かしつけるのに時間かかり過ぎる。

寝たい時も子供が元気だと寝れやしない。

面倒なこと沢山です。


それでもまぁ、うちの子をかまってやろうって気になるのは

まぁうちの子が可愛いからって思うのはあるのですけど

素直に普通に色々世話させられていると感じれば素直に可愛いと思えるかどうか。

実際に子供可愛くても面倒まったく見ない男っているじゃない。


ふと思うと。

例えば私がゲームしてるとき、

妻と息子がふすまを跨いで寝室にいて妻が息子を寝かしつけている時。

ふすまの向こうからしばしば笑い声聞こえてくるんです。

それはもう楽しそうに。


気になってしばしば覗きこんだり

たまに混ざりに行ったりもする。


多分、それなんだと思う。

子育ては労力が大きい。

だけどそれを「労働」として印象を持ってしまったら

私みたいな物臭は申し訳程度にしか子供と関わらないと思う。

妻と子が笑ってるから、多分私はそれを「労働」と印象に持たないんだと思う。


子育て大変なのはわかる。

だからこそ、私はこんなに大変なんだからコレぐらいやって

・・・なんてすることをフラれたら

やりたくないって思うのは当然ですよね。ぶっちゃけ。

それをまぁ子育てしない理由にすべきではないのですけど

言い方一つで、振る舞い一つで、態度一つで

しようという気持ちががらりと変わる。

負担の分散がそれだけで変化する。


そう考えると

大変なのを助けて欲しいと願うなら尚のこと

印象って大事。

第一印象が特に。

こういうひと工夫、意識したことありますか?



さらっと軽めにそんな話をしたら

嫁が「へぇ〜」って顔。

うちの嫁は知らずにしてそういう印象操作を上手くやっていたわけですね(ぁ
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posted by ぽて at 01:12 | 兵庫 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 相・映・想・記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月30日

信じる、疑う。

きっと何かを成すときに大事なのは

自分を信じれること。


そして危険なのは

自分の正しさを疑えないこと。


迷った時、不安になったとき、

自分を信じる為の言葉が

人から借りた言葉なのか自分の言葉なのかは重要ではなくて

その言葉が

前を向くための言葉なのか、自分に言い訳している言葉なのか

自分の見方を照らす言葉なのか、自分の考えを盲目させる言葉なのか

それを見極めること。

自分が何かから目をそらす為に

耳触りのいい正論を選んでいないか

自分の一歩後ろから、

自分の背中と自分の視界を見ながら

冷静さと正直さのどちらも繕わずに

見ること。受け止めること。


自分のしたことが正しかったかどうかなんて

気分で変わるような曖昧なものなんだから

起こる前から、そんなに拘らないこと。


多分、大事なこと。

自分とその自分を作る環境の為に。
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posted by ぽて at 04:33 | 兵庫 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 相・映・想・記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月01日

子供と自分と。

妻と話をしていて。


子持ちの人は心あたりあると思う。

子供がやること、ついつい大人が真似をしてしまう。

子供が大きく口あけて「あー!」

とかいうと、大人もやり返す、みたいな。


妻がまぁ、そんな感じで赤子のまねをした。

それに対して私が自分のこと棚に上げて

「子供は親の背中を見て育つって言うけどさ。

 親が子供の真似してどうすんねん。」

とかつっこんだ。

妻は「子供が親の背中を見て育つなら、親は何見て育つんだろう?」

少し考えて私が

「子供だった頃の自分の背中じゃないかな。」

と。

深く説明せずとも妻が意図を酌んで納得してくれた。

自分の親が、自分の子を抱く姿をみて

自分がこうして抱かれて世話をしてもらっていたんだってのが見え。

自分が自分の子の世話をすることで

親が自分を世話してくれたときの苦労を知るわけで。

親としての成長って皆、ここで実感するんだと思う。

言ってみれば自分の子供に子供だった頃の自分を重ねて、それを実感するのだから

さっきの表現になる。

こっちが説明するまでもなく納得した妻が

「今年一番良いこと言ったんじゃない?」

確かに我ながら奇麗にまとまった表現できたなぁと思うけど(ぉ


「そう考えると自分見て育ってるんだね」と、妻。

ある意味そうなんだろう。

子供にこうであってほしい、こう育ってほしいってのは

ある意味で自分が

ああしたかった、こうして欲しかった、こう育ちたかった。

そういったやり直せない自分の人生に対しての願望が出ているわけだし。

これから人生積み重ねてく子供に対して、

自分の願望を良かれと思って重ねているんだから。


そういう意味で、確かに子供を通して

自分を見てるんだ。

私は基本、家族でも別人だから突き詰めれば他人。

赤子って、全部こっちに寄りかかって生きているから

自分じゃないけども他人と区切りきれない何かがあるから

ついつい、期待をするときにべったりと自分を押し付けがちになる。

これは私自身、実感している。同時に自重を何度も自分に言い聞かせているけど。


自分の分身とまでは言わないけど

自分に一番近い人間って、自分の赤子なのかもね。

ついつい、自分を重ねて考えてしまうのだから。
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posted by ぽて at 01:47 | 兵庫 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | 相・映・想・記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月23日

堂々と。

うちの赤子を見ていて、思うことがある。


常に、堂々とした態度で居る。


赤子なので当然のことなのだけども

こいつは自分じゃ何も出来ないわけで

食事も用意出来なければ

飲むときに哺乳瓶も支えてもらってないとできないし

ウンチやおしっこも出すだけで

その後処理は自分ではできない。

寝返りはできるけども自分でそこいら出歩くこともできないし

出来ないことがあって不満なら

泣きわめいて人にしてもらうだけだ。


でもね。

うちら大人なんかより

余程、生きているってことに対して堂々としている。


勿論、社会のこと何も知らないからって言ったらそれまでかもしれないけど

だけど本来、生きていくってことを

うちら大人が態度で見せて、

その背中を見て生きてくってことがどういうことなのか

子供たちは理解し、社会出る前に色々と察していくのだと思う。


そういった意味で

いじけてスレたような態度で人生解ったような態度で語り

人生の価値を勝手に決め付けて貶めるようなことをせず。

生きていくってことに対して堂々としているべきは

大人の私たちの方であるべきなんだろうと。


生きる年月を重ねるごとに、

社会として組織構造の役割をこなすごとに、

それは非常に難しいことに成っていくってのは

社会人やってる人たちは皆どこかしらで実感しているとは思うし

私もそう感じているわけだけどもね。


うちの子が、あまりにも堂々とした態度で

それでいて気持ちよさそうに寝ているもんでね。

ちょっと、考えさせられてしまいましたとさ。



余談ですが

私は

「猫は自由でいいわねー」

とか

「子供は良いわねー。何も知らなくて。」

とか、そういう類の発言は嫌いです。

本当に良いと思うなら

その在り方の良さを自分の生活の中に取り入れる工夫をすべきで

それもせずに

厭味ったらしくその対象者の苦労を棚に上げて

さも自分の方が苦労しているような発言するなんざ

お前一体何様だって話。
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posted by ぽて at 03:46 | 兵庫 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 相・映・想・記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月17日

「"一方的な"約束」、していませんか?

約束。

した以上は守るべきものだろうと思う。

ただ、よくその意味がわからないまま約束が成立したら

その約束を守るということは不快や苦痛になる。

それでも、承諾したのは自分だから

やはり自分の為にも守るべきものだろう。


でも、その約束が決まった瞬間が

平等性を欠くものだったとしたら・・・?



しばしば、こういう姿を見かけませんか?

まだ幼い子供と、

大人しくする、静かにする、等を約束する親。

ぶっちゃけ子供なんてその場でとりあえず頷く。

言われた内容に対して

自分が何をしなきゃいけなくて、何をしちゃいけないのかなんて

その時点で判断できるほどの経験を持ち合わせてはいないもの。

親が自分に向かって言うのだから、まぁ素直な子が素直な内はきくわけだ。


で、良く見ると、約束の中身は

親からの子供への要求のみ。

子供は守るべき基準は課せられるのに

約束を持ちかけた親自身には、

子供に対して守るべき基準が課せられていない。

勿論親は親として、社会や環境に対して子供をある程度管理する義務と責任はあるので

その上での基準が課せられているわけだけど

実際約束する相手である子供に対しての内容が欠けている。

子供視点からすれば勿論これは

平等性に欠く内容で、約束をさせられているわけだ。

そう、約束をした、ではなく

させられた、となる。

その不満に気付いたら勿論、守ろうなんて気持ちは失せる。

子供にとっては勿論だけど

大人だってこれは嫌なはずですよね?

だって、そうじゃなかったら

商品買った時点で売る側や製造した側の提案を理解したうえで契約を成立したはずで

それについて、その自分が受け取った商品が不良品でない限りは

自分の確認不足以外何物でもなくて、お金払った時点で自己責任だもの。

言い方悪いですが自分の確認不足を棚にあげてのクレームなんて良くあります。

ってかまぁ、職業柄だけど、とても細かくしっかり説明したのに聞いてないとか言われること良くあります。

良い歳した大人、とくに年配の方で。

まぁ話がそれましたが

大の大人でも、自分がしたはずの約束でも

後から不当と感じれば憤り、不満をもちその反故を要望するわけです。


子供だってそれを表現する手段が乏しいだけで

不満を持てば反故にしたいもんです。

親の言ってくることに対して、

嫌だけどどうして良いかわからんから

とりあえず言われたこと無視するとかするでしょうね。


その上、約束は守らなきゃダメ、って言うわけです。

約束を取り付けた側、親は。


ね、立場を変えて見るだけで

不公平が簡単に浮き彫りになる。

約束は、そのした相互にとって公平性が

それぞれ実感もしくは自覚出来ることが大事。

それを伴わない約束は、バランスが壊れている。


もし一方的に約束をするぐらいなら

選ぶべきは約束ではなく

「お願い」だ。

だって自分の都合を相手に聞いてもらうんだもの。

これは、相手が子供だろうとお願い。

適切なアプローチを選ぶからこそ

子供が相手の不当を言い訳にして誤魔化すことを

防ぐための予防線を敷くことができる。

ただ、あくまでお願いだから

それを聞くのかどうかはされた側の自主性。

強制ではないことは忘れずに。


まぁ、もう約束押し付けすぎて

何かともう嫌がられるようになってたら

お願いに切り替えてもしばらくはまともに話聞いてもらえんだろうけど

それは悪いが自業自得(きぱっ

根気よく、お願いをして聞いてもらえるまでがんばるか

約束するかわりに自分も守る約束を提案して遵守して

自分の発言の信頼性の回復をはかるかしないとね。



約束は重い。

遵守することをお互い期待され

守らなかったら人間性を軽んじられる。

だから、適切適量が大事で

安易に自分の都合を相手に叶えてもらう為に使うべきではない。

自分が約束の重みを負わず相手にばかり負わせる、なんて繰り返してたら

逆に自分の言葉が過度に重苦しく思われる習慣がつく。

言われる側からすれば無駄に重い言葉なのだから、扱いは軽んじる方に向かう。

これは自然に起こるべきことが起こっているだけの流れ。


一方的な約束は

一方的な負荷。

自分の言葉が相手に届かないと思うなら

きっと自分の言葉や行動にも問題があるはず。

正論で論理武装することにも逃げず

相手にとって自分の言葉がどういう意味になる要求なのかを

考えて選ぶことが大事、だと思います。
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posted by ぽて at 13:55 | 兵庫 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 相・映・想・記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月05日

お客様。

「お客様」

様とつけられている言葉。

相手を、客を敬って使う

なんとも日本らしい良い言葉だと思う。

ただね、様付けされる以上

私はこれを、無理を通す為の言葉にするなんて筋違いというか

恥知らずで愚かだと思う。

様付けされる以上は

様付けされるだけの品と振る舞いをしてこと

様付けされるに足る、と思う。


まぁ大げさな言い方だが

敬られるからには、相手から見て

素直に敬える相手で有るべきでないと

それは自分に最低限の品がない、ということだろう。

無理に品行方正に振る前ってことでなく

相手が、

仕事だから様づけしてるけども

なんでこいつこんな偉そうなん?とか

様付けするのなんか嫌だな。

とか思うような程であるのは様付けされるに

相応しいわけがないと。


お客様は神様です。

これはサービスを提供する側が言う上では非常に良い心がけであると思う。

自分がお金稼いで生活できるのは何故か考えればまさに。

まぁ、私は神様って概念の考え方がズレてるんで

神様という表現を適切とは思っていませんが

その言葉の意図はわかるつもりです。


だけどね。

自分から「様付け」されるそれを口にする

それを理由に相手に何かを求めるなんざ

論外。恥知らずも甚だしいと思う。

相手が敬ってくれていてこそ、

様という言葉が相応しくあるのであって

進んで自分から使うなんて

様を付けるには品がなさすぎる。

様付けをされるべきではない。


まして自分からお客様は神様なんだから、なんて言おうものなら

気持ち悪い上に無知丸出し。

神様であるなら尚の事、信仰があってこそ成立するもので

んなもんもなく自分から神様って主張だけするとか

あほかと思う。


ぶっちゃけ自分からお客様は神様だろなんて言った時点で

客とすら思われなくなっても仕方ない。



まぁ私の言い方は結構荒くてきついけどね。

私がこんなこと言いだした切っ掛けってのは

星のカービィとかスマブラの生みの親として

ゲーム好きには有名な桜井政博さんのコラムをまとめた本を読んでてですね

私と似たようなこと思ってたみたいなんです。

私みたいに酷いことは言ってませんが(笑


そこで知ったんですけどね。

「お客様は神様です」

という言葉。

この言葉でおなじみの三波春夫さんの言うところの

お客様は神様です、の真意。

やはり、三波春夫さん自身

お客さん側の我がままにあたる部分に

このフレーズを使われるのは不本意だそうです。

その旨はこちらからご覧ください。

これ読んで、

どういう心持ちで

「お客様は神様です」

と思い、そう口にしたのか。

それを理解した上で

自分からお客様は神様だろうと振る舞えるなら

なんともまぁ・・・ね。

私は掛ける言葉が無くなりそうだ(ぁ


私は決して礼儀正しい方でも

高い品のある人間でもないけど

せめて自分がお客様側であるときは

振る舞いが相手にどう映るかぐらいは

気にかけたいと思います。
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2011年07月17日

「人」

まず先に。

別に人の在り方の理想なんて人それぞれで

それを全面的に否定する気は無い。

ただ、それを理屈付ける為の肉付けが欠陥だらけだと

簡単に論破できてしまう。

簡単に論破できてしまうとその在り方の良し悪しの本質は横に置かれ

稚拙な理想と簡単に片付けれてしまう。

大体の人は自分で論破できると、大概はそれは性質を見ずに軽んじる。

だから、単純に

中身云々でなくて

その理屈が欠損だらけのくせに綺麗事を声高に言うのが

腹立たしい。

綺麗事を言うならせめて、

ひねくれた連中にも、軽率な連中にも、悪ぶった連中にも

否定できない理を元に、

適切に言葉を選び、

理屈と理由をつけるべきだ。


前置き終わり。


近頃嫌いなCMがある。

長い方と短い方、支え合ったら「人」になる

支えるから人なんだ 支えられるから人なんだ


と。

謳うアレだ。

キン○チさん理論の応用なんだろうか。

キ○パチさんの場合は、支えあってる、だったろうか。

その場合だと「片方が明らかに楽してるじゃん」

というよくあるツッコミがあるので

まぁ、それを踏まえて

あえて予め長いと短いに分けて、それぞれ支える側と支えられる側にわけて

どちらも尊重する形をとったんだろうが・・・

結局のところ、支える側と支えられる側がはっきり分かれた社会を

声高らかに謳ってるに過ぎない。

まぁ、実際世の中、特に日本とかまさにそういう仕組みですけど。

それを声高に謳われてもねぇ。

返って腹が立つ。


まぁ、そもそも

「人」って漢字の成り立ちを考えれば

分けるべきではない。

あれは人の形からきていて、股で分かれているわけだから

あれを長い方と短い方にわけたら

本体+左脚 と 右脚に 分割したことになる。

グロイわ。

そして右脚で全身を支えると。

全く持ってなんのこっちゃ。



そもそも、何故支えるから人で支えられるから人なのだろうか。

人とは、あくまで生物を示す名称に過ぎない。

サル目ヒト科ヒト属ヒト。

人ってのは、犬とか、牛とか、猫とか、それを指し示すもの。

逆説的に、支えることも支えられることも出来ない環境を作ろう。

例えば

誰にも干渉することの出来ない空間に

人一人を隔離してみよう。

そうなったらそれは、人じゃなくなるということになる。

んなわけはない。

生物的に明らかにそれは人だ。

むしろ人じゃなかったら何だ。

是非とも問い詰めたい。


そしてその上で

人がコミュニティーを込みで

その文化性等の集団性を含めた上での名称としてなら

人ではなく、人間と言うほうが適切だ。

無論、つかう単語がに「人間」であるなら

あのCMの理屈は「人」に対してのみなのだから通用はしない。



また、「人」は漢字だ。

通じるのは言ってみれば

中国語と日本語ぐらいか。漢字をつかうところだけ。

世界でたったこの範囲だけでしか通じない。

それ以外の地域に、どれだけ人が生きているというのだろうか。

なんとも、視野の狭い話。




支える、支えられるでいえば

人は誰しも、どちらかだけに偏るべきではないと思う。

そういった意味では綺麗事らしく支える、を肯定するのだけでなく

支えられることを自ずから踏まえ、認めることは大事だと思う。

だがまぁ、

あんな謳い方とするだけで

穴だらけの言葉で語るだけで

台無しになる。


だから、気に入らない。
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posted by ぽて at 03:45 | 兵庫 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 相・映・想・記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月30日

残る。

「震災過ぎてからね、

 自殺者、時間が経つに連れて増えてるんだってさ。」


『あまり気分の良い話題じゃないね。

 まぁ日本は元より・・・

 というか経済的に豊かな国は割りと何処もだけど

 自殺者多くなる。

 それを差し引いても嫌な増え方だよ。

 こんな値が右肩上がりなんて。』

「なんで・・・なのかな・・・。」

『わからないよ。

 自殺の理由なんて人それぞれだろうしね。

 今回の震災で言えば・・・

 まぁ、復興に対しての政府の対応に期待が持てないとか

 そういった部分の積み重ねで先が見えないところとかだろうかね。

 只でさえ被災して、身内が亡くなったり行方不明になったりで

 気持ちが弱ってるところだし。』

「私は体験してないから想像することしかできないけど・・・

 そうやって気持ちが弱っているときに、だったら

 ・・・そうなってしまうのかもしれないね。」


『周りの多くの人の生き死にを一度にその目でみて、

 自分自身も命の危険に晒されれば

 嫌でも死ぬってことや生きるってことを考えるんだろうさ。

 気持ちが落ち込む要素が多い中でね。』


「死ぬってことや生きるってことを考える・・・」

『詰る所、自殺ってのいうのは

 生きることの意味合いを考えて

 その意味合いに対して否定的な理由付けをしたときに

 起こりえるんだと思う。


 宗教は好きだけど無神論な私が言うとまたなんだけど

 進化論前提で話を言えば

 生き物でも何にでもに関わらず

 「残る」形をしているものが自然と残る。

 「残らない」形をしているものは勿論、今残ってない。

 極端な話、それの繰り返しで

 進化ってのはさもその生き物が生きる上で環境に適した形に変化したことのように言うけどね

 私が思うには

 生き物が代を重ねる上で少しずつ変化していき、その中のわずかずつの変化でも

 残り易い仕組みを持ったものが残り、残りにくい変化をしたものがそのまま淘汰され

 結果、残ったそれを進化として変化を残せただけだと思ってる。

 残るものは、残ることが前提で、残ることの是を疑わないのは自然なこと。

 残らないことが是ということは生物としてその理の通りに動いたらそこで途絶えるわけだら。

 単細胞生物から動いても、多細胞として纏まったほうが残るから残った。

 極端なところ、そこからの積み重ね。

 一つ一つ細胞がそれぞれの役割で生き残る活動を入れ替わり立ち代り続けるのだから

 人の身体もまた、生き残ることにたいして前提としては是であって自然なんだ。』

「生き物は生きようとするのは肯定的ってことで・・・いいんだよね?」

『基本的にはね。

 生きようとすることに、残ろうとすることに否定的な形や仕組みをとったものは

 勿論それ自身が絶えてるわけだから。

 地球が生まれてから、いや宇宙が出来てから・・・

 んにゃ、世界が始まってから?

 まぁ、何にせよそれだけ膨大な途方も無い時間が過ぎてるんで。

 ちっさい我々単位でなら勿論、

 残る形をしていないもの、残る為の仕組みのないものは

 残ることを是としていないものは、すでに無いんだよ。基本的にね。

 だから、生きること死ぬことの意味ってものを改めて考えたときに初めて

 「生きることに対しての否」が生まれる可能性があるの。』

「考えるから、初めて・・・違う意味になることがあるってことなのかな・・・?」

『多分ね。

 私自身、ありがたいことにそういうことを考えても

 否定的な結論を付けたことは無い。

 そういった意味では恵まれた環境で育ってるから

 私個人としては生きることを否定したくない。

 かといって、それぞれの人生経験の上で改めて生きること、死ぬことを考えて

 生きることを否定する考えに至る人もいれば

 死ぬことを肯定する考えに至る人もいるだろうし

 それが、間違いだなんて私は言える立場にない。

 だからまぁ、あんな回りくどい言い方したわけだけど。

 極端な話。何も考えずダラダラ生きるやつは

 生命活動の維持を込みで何も疑わず行動するだろうよ。』

「ダラダラ生きてるけど死にたがる人もいるんじゃない?」

『死にたがるって時点でまだ生きてるわけだけどね。

 少なからずその段階で死ぬってことを考えているわけで

 別にそいつは何も考えてないわけじゃないよ。』

「あぁ、そうね。

 それで・・・

 生きること、死ぬことを考えるときってどんなときなんだろう・・・」


『まずは・・・

 さっき言ったように、生死に直面したとき。

 自分自身が危ない目にあったり身内や好きな人が死んだりしたときとかね。

 自分の人生を考えて先に不安を感じたり

 生きている意味合いを他者に否定されたときとか

 あとは漠然と、生活に考える余裕があるときかな。』

「え・・・最後のどういうこと?

 他のはなんとなく分かる気がするけど・・・」


『何かを考える切っ掛けって外的要因にもたらされる場合が多いからね。

 ただ、何かに懸命なって生きてる人には

 とりあえずその最中に死ぬこととか考える余裕はないよ。

 何か仕事に打ち込んでやりがい感じてたりとか

 日ごろ食べるものが不十分で生きることに懸命になっているとかも

 衣食住にそこまで困らず

 ただ漠然と生きれてしまっていて

 それでいて考え事する時間の余裕があっても

 漠然と考えるときはあるんだろうね。

 こう、はっきりと死ぬほどじゃない理由ばかりでも

 振り返ったときに自分の人生のイメージがマイナスだったら

 傍から見て些細なことの積み重ねでもね

 死ぬという結論にいたっても不思議ではないんだよ。』

「あぁ、それで日本や先進国って・・・」

『まぁ、教育もある程度整って死生観や哲学や倫理学とか生き方考える学問の知識を

 一般人でも学びやすくなったってのもあるんだろうけど

 単純に、それを考える余裕が整い易いってことは理由だと思う。

 それで寂しいことに豊かな国で自殺者率多いんだと思うよ。』

「ん・・・。」

『生きること、残るってことが良い事か悪い事かの結論ってのは

 正直、私にはわからないし結論つけるには大それた話。

 実際に生きてることが是なのか聞かれて

 気持ちでは肯定したいけどどれも感情論の域を出ない。

 根本の命の在り様と意味を掘り返したら

 いくらでも否定的なこと言えるから。

 でも、少なからず

 生きること、残ることを是とした前提があって

 物は生きてるし、こうして何度様々ものが死んだり淘汰されたりしても

 何度も新しく生まれる。

 その前提があって今、生き死にを改めて考えることのできる自分が居るんだから

 それを考えること事態が無駄ではないはずで

 無駄でないなら、生きて考えているそれは少なからずその命と共に肯定されると思う。

 どんな考えに至ろうと、生にどんな意味を付けようと

 それは、生きている前提の元にある。

 是非の程は難しいけど

 少なからず、生きていて良いか悪いかで言ったら

 生きたいと考えるなら、生き死に考えることが無価値でないなら

 生きてて悪いはずは無いと思う。』

「ふぅ・・・

 なんだか難しいね。結論つけ難くて。」


『そうね。

 むしろ無闇に結論をつけるべきものじゃないと思うけど。

 というより、自分の中で持つのはいいけど

 それは他人に押し付けるべきじゃないし

 他人に同じく当てはめて考えてはいけないことだとは思うよ・・・。』
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posted by ぽて at 10:29 | 兵庫 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 相・映・想・記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月21日

新婚生活というものを分析する。

惚気になるのか惚気にならないのかは微妙だけど

実感に基づいた上での

新婚生活というのは何だろうかと

自分なりに分析、整理してみたいと思う。



と、その前に。

私が思う各々が持つ「常識」という意味合いについて

以前に話をしたかもしれないが

再度、説明したい。

これがまぁ、私なりの新婚生活というものを分析する上での

前提のようなものになるので。


常識、と一言で言うと

大体は言うまでもなく皆わかっている知識や感覚。

そういったもののように扱われる。

辞書では、一般の社会人が共通して持つ普通の知識・意見・判断力

のようなことを書かれているわけだが

「常識的に考えてわかる」「そんなのは常識だ」

等という言葉の用法に現れることから相手に向けて使う場合

自分の当たり前の感覚・知識に照らし合わせて

相手側にある常識から反れた部分を指し示し、その対象者に使う。

また、常識が普通の感覚であるなら、

普段から人は常識を意識して考えることはそうそうない。


明確に社会人として共通として持つ普通の知識や意見なんてものは決まっていない。

おぼろげでありながら、時代や所属や年代によったりで安易に変容するものでもある。


自分が常識だと思うものは勿論、各々が実生活において経験し獲得するもので

テキスト読んで獲得するようなものでも

学校の授業で教えてくれるものでも

親がわざわざこれが常識だよと一つ一つ教えてくれるもでもない。

まぁ、教えてくれる親がいても網羅はできんだろう。


例えば地域、例えば会社、例えば友人・先輩後輩などの交友関係、

例えば学校、例えばサークル、例えば家族、例えば一人。

それぞれの括りで部分的に生活を持つと

その繰り返しの中で、自分で経験し学習、獲得するのが

常識という知識であり感覚なんだと思う。

獲得というか構成というのだろうか。


そんなわけで。

常識は、一人一人違う。

違うだけであり

間違っているということは決めがたい。

そのくせ大体は、自分の思う常識が正しく

それに合わない常識を間違うとする。

違うと、間違うは、全く別物。

自分を客観視しないまま自分と違うものを間違いとするのは

稚拙なもんだ。



そんなわけでまぁ

違えるとなんとも違和感やストレスが生じるこの常識だと思ってる感覚というのは

一人一人、別物なんだということを踏まえていただきたい。



前置き長いね(ぁ

ここで閑話休題。

皆様忘れているかもしれないけど

今日の話したいことは

新婚生活の分析ね(ぉ


この新婚生活っていうのは

別々の生活が染み付いた人間二人が

生活空間を共有するわけです。

当然のことながら細かく、沢山のお互いの違いが浮き彫りになるわけです。


大抵の人はまぁ、自分がその常識で生きてきて困らなかったわけですから

それと違うことが見えたら前提自分が間違ってると思いませんし

自分が間違ってないなら、相手が間違っていると。普通に思うわけです。

まぁ先に言った通り、違いと間違いは違う。


そして傍から見て些細な違いでも

案外これがストレスの原因にもなる。

例えば味覚の好み。これは案外大きい。

味、食を楽しむことが出来ると誰しもテンション上がるもの。

人には好き嫌いがあって、勿論人それぞれ違う。

生活を共有するということは大体、同じ食卓を囲むわけで。

同じものを食卓に並べるわけだ。

自分の好きなものが、相手の嫌いなもの。

好きというほどでもないけどたまに食べないと落ち着かないものもある。

まぁ食べたいものにある程度の制限が関わる。

これが案外ストレス。

食べちゃ駄目とまでな言われなくても

嫌いなものが食卓に並ぶと怪訝な顔をされるもの。

スーパーで自分が好きで相手が嫌いなものをカゴに入れるのが

なんとも入れずらいもの。

においモノなら尚更。

また、味付けの好みの違いなんてものもある。

私は長野だから割と味付けの塩気は濃い目になり易いしそれに慣れている。

妻は兵庫でやはり関西系統なのか、薄口になり易い。

妻曰く、家族の中でも薄口な方だったそうだ。


どちらかがどちらかに合わせればいい、という問題ではあるのだけど

それを合わせて起こるストレスというのは

頭で判っていても起こるものであり

それは長期的に続くというものである。


食意外でも、生活習慣の違いの、些細な違いは沢山ある。

勿論、気遣いの無い人が一緒ならそのままストレスになるし

お互い、気遣いの出来る人同士でも

気遣いというのもまたストレスの作業である。

お互いにこれまでの生活を制限してしまうもの。


それがお互いに気にならなくなるまで

お互いの常識として成るまで

不透明な期限で続くわけだ。


致命的なものがなくても

積み重ねでも十分、我慢できなくなる場合はある。

むしろ一つ気になりだし処理ができないと

気になるものが増える増える・・・。

物事、動機を聞かれると抜粋して一つ大きなものを挙げるが

実際のところ一つだけなんて場合は少ない。

様々な理由が絡み合い、自分でも根源がわかりにくくなる。

だから本人にとって大きなストレスでも

抜粋してあげた理由や切っ掛けが

「それだけ?」と思うような、傍目に些細なことに成りやすいのは

まさにそこなんだろうと思う。



まぁそれで一つ許せないこと、折り合いがつかないものがあれば

連鎖してもおかしくないわけだ。


うちは妻が割と人間できてるのと

私が結構だらだら柔軟なもんで

今のところ上手いことそいうのが深刻化しないのだろうと


逆に言えば

今まで自分の生活には無かった常識が入り込む新鮮さで

面白いことも沢山あるけどね。



まぁよそ様がどうかは知らないけど

新婚生活ってのはただ好きな人と一緒ってだけでなく

そういう要素を含むものなんだろうねと。


・・・まぁこれまでの内容ぐらいだと

同棲も同じようなこといえるのかね。

知らんけど。
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posted by ぽて at 11:21 | 兵庫 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 相・映・想・記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月23日

募金する気持ちそのものを否定したくはないのだけどね。

色んなところで見かけますよね。

募金をお願いしますって。

私の働いてるお店でも募金箱置いてます。

該当でも東日本大震災の義援金募ってますよね。


・・・。

被災者のために、復興のために。

その気持ちは大いに結構なんです。

でもね・・・・・・。


入れただけで、

安心してませんか?



どうなってるか

どう使われてるか

見えてますか?

誰がどう使ってるかって

わかりますか?


そもそも、

自分が、被災した方々のためにつかってくださいと

自分の財布から出したお金が

どこの誰が管理して

どう使っているか

気にしてますか?



すっごい失礼承知で言います。

疑ってください。


小中学生が一生懸命

募金お願いします!って大きな声で呼びかけたりしてますよね?

たとえその少年少女が素直に人の為にという気持ちで集めても

それを管理して使うのって

別の人ですよね。

その人がどんな気持ちで管理するか

どんな目的で管理するか次第ですよね。

たとえどんな無垢な人が訴えて募金を募っても

有名人でも、知り合いでも、

・・・その人の人格の信用度って関係ないですよね?



募金、義援金を集めている団体

ちゃんとどんな団体かご存知ですか?

その身元ははっきりしてますか?

信用に足る団体ですか?

たとえ、その団体が信用に足る著名な組織だとしても

街頭で募金を募る、メールや電話で募金を募る

その時って、他の人がその組織名出すこと簡単に出来ますよね?



募金を募っている団体が

どういう用途で使うか、

その団体がいくら集まってどう使いますって発表するところありますけど

その集まった総額が発表されているものと合ってるのか

我々で確認する手段ってあると思いますか?

あくまで公表する側の自己申告ですよね?

いくら金額削って発表しても、実際気付かないですよね?


また、どう使うか発表してるところも疑問符あるところもあります

例えば日本ユニセフとか

東北の震災についての名目で義援金を募ってますが

復興支援できたら他のことにその募金で集まったお金回すって言ってます。

・・・ツッコミどころ多すぎるんですけど。



義援金詐欺という単語をご存知ですか?

色んな手段がありすぎるんです。

募金詐欺自体昔から色々ありますし。



本当に、被災者のために、被災地の復興支援の為にと思うなら

気にしてください、

しっかりと、冷静な目で疑ってください。

入れたからで安心しないでください。


ここまでの文章を見ても

それでもそこまでしてまで募金する気ないからテキトーにその辺で募金するというのなら

あなたは理想的な、人の善意に漬け込んでいる連中にお金渡すカモです。

自分の気持ちを、震災に対して無関心じゃないんだよって安心させる為にお金出してるだけです。



一応、全面的に赤十字を信用してるわけではないですけども

私が思うには、赤十字に直接、口座から振り込んで義援金を送るのが無難だと思います。

ただ、赤十字を名乗って募金を募る団体がいてもおかしくないことは

はっきり意識してください。


むしろそういうニセモノに振り込むと

そういう連中のカモリストに自分の個人情報流すようなものだと思ってください。



失礼承知でですが

個人的には、街頭で募金を募る人に募金するのはおススメしません。

一番、抜け穴が多いと思います。

どうとでもお金ちょろまかせますし

一番足つかずにトンズラし易いんじゃないかと。

それに善意で本当に被災者の為に、復興の為にと思って街頭に立って募金を呼びかけているなら

その人にとっては、自分の持っている箱に入れなくても

自分の呼びかけを切っ掛けに、人が別の窓口でも募金するのなら

無意味ではないし、嫌ではないはずです。


募金の呼びかけが無意味だとは思いません。

世の中至るところで、何処ででも義援金募っていれば

やはり募金する側も、よりそういう気持ちになるんですから。

そういった活動をすべきではないとは思いません。


ただ、募金する気になったときの窓口としては

不明で不安な部分が多すぎる。

と思うだけです。



あとついでに。

ユニセフと日本ユニセフって全く別組織だったんだね。

最近知ったよ(ぉぃ
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posted by ぽて at 01:36 | 兵庫 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | 相・映・想・記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月14日

自分を信じるということと、自分が信じられないということと。

自分を信じるということは

行動する上で非常に効率的な感情の状態だと思う。

勿論反面で、見切り発車や判断ミスの原因でもあるので

全面的に肯定はしないけども


それでも、

何だかんだ小理屈重ねて、体験して初めて得られる情報も知らぬまま

さきに分かった気になって行動しないよりは遥かに良いと私は思う。


さておき、自分を信じる、自信というものは

理屈で構築するというより

経験則に近いものだと思う。

理屈は自信の後押しに後から付いてくると言って良い。

結果を見てから後からその過程を考えて補足するような感じ。



自分を信じられないということ。

自分の行動に成果が出ないだろうと思う価値観。

これもまた、自分の経験に基づくものだと思う。

過去の経験から自分の行動と結果から

自分の出すそれがマイナス評価としての印象が多いからなのだろう。

その評価が周りであれ自分であれ、

最終的に自分がそれを受け認め、

重ねたら、それが経験則として自身に入るわけで。


思うに、これは経験則として学んだことである以上

自分を信じるということ

自分を信じられないということ


どちらも、向いているベクトルが逆であるだけで

同じ性質なんだと思う。


自分を信じるも、信じられないも。


言ってみれば信じられないも言ってみれば自分を信じると共通する状態である。

変な言い方をすれば、

信じられないことも信じることも、同じことをしている。

頑なさ。


本当に自分の信じることが出来ないのなら、疑うなら、

「自分を信じられない」ということ自体も疑うはずで、そうあるべき。

言ってみれば自分が信じられないという状態は

こまかくややこしい言い方するとだ

「自分を信じられない」ということを「頑なに信じている」状態なわけで。


要するに、ベクトルが違うだけで

自分の経験則に基づいて自分の価値観を信じている、

という部分は基本同じわけだ。



百聞は一見になんとやらというのとはまた違いますが

経験則は、思考し理屈を重ねるより

遥かにダイレクトに、自分が見る世界の捉え方に響きます。

その見え方を自分の考えに結びつけ、経験で確信することは

すなわちより強く信じることにつながります。


状況に副った適切な理屈も

人に伝えるのは大切なことですが

育てる、という点を含めて考えるなら

自信、というものがどう構成されるのか理解することも大事だと思う。


まぁ、

時間と手間が目一杯かかるわけですけどね。
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posted by ぽて at 03:02 | 兵庫 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 相・映・想・記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月22日

運命。

しばしば。

運命、という概念を履き違えている言葉を良く見かける


運命は覆る

運命は切り開くもの

運命には逆らえない


運命という言葉の性質を解体すると

こういった表現はなんとも的外れ。


運命の出会いとかも、なかなかどうでもいい言葉だ。


運命というのは良く、物事の結果に対してそれを軸に

その結果が予定されている通りかのように言いまわされるが


事象とは常に連続しているもので

仮定であれ結果であれ、

あくまでそれは認識者側が認識しやすいように記号を付けて

連続し続ける事象の一部を切り取って言っているだけに過ぎない


結果を指して運命というのであればそれに至るまでの過程もまた運命であって

観測者にとっての結果のみを運命と指すのは的が外れている。



運命というものは肯定するのであれば

人が運命をいうものをどういうものであるのか確認できるとすれば

それは、実際に事が起こった後で、という場合のみ。


神話がらみの話では神が運命を決めている前提で

預言者に信託にて伝える場合もあるけど

そういった話が良く出てくるギリシア神話では

まぁ、運命の三女神のモイライがそれぞれ

運命の糸を、紡いで、巻き取って、切る、という役割を続ける。

けれども結構ゼウスが気に入った人の寿命延ばしたりと

現在進行形で変更加えたりする場合もあるので

まぁギリシア神話では現在進行形で運命が神自ずから変更させる例があるわけだが


人が寿命延ばされただの縮められただの、言われんとわからんしな(ぁ




言ってみれば運命というのはどちらかといえば摂理のようなもの。

理、だ。

例えばだけど

運命だと思っていたことが、実際に起こらなかった。

この場合に運命が覆されたなんて言い回しをするが


ここでわかることは

運命を読み違えていたというだけのこと。


自分の認識にとってありえないことが起こったとして

疑うべきは自分の認識であるべきで

起こってしまった以上、その目の前に起こったことは起こりえること。

起こりえるであろう仕組みを読み違えたり

自分の認識そのものが履き違えていると考えるのが自然だ。


起こりえることしか起こらないし、起こりえないことは起こらない。

起こった以上はどんなに可能性が低いレアな事象であってもそれは起こりえること。


起こったことと自分の常識を比べて、起こったことを否定するなんていうのは

自分の常識や認識のほうが、万物共通した理よりも正しい、と主張するようなもの。

こんなものは思い上がり以外何者でもない。


運命だと思っていたことが、外れたならば

それは、運命が間違ったのではない。

運命というものを、人が勝手に決め付けたり読み違えただけのこと。

それは運命が覆るには入らない。

しいていうなれば、運命を間違って理解している段階もすでに運命に含まれている。


よって、運命は自分で切り開くという表現も正しくない。

切り開こうが切り開かなかろうが運命は運命。

しいていうなら自分で切り開く、という発想そのものも運命に含まれている。

なんともまぁ本末転倒な話で。

この場合、物事は自分の手で行動起こしてこそであることを主張したいのなら

運命論自体を否定する、という形での表現をするのが適切だ。

運命という言葉を肯定して引っ張り出した時点で

行動する切っ掛け意気込みも運命に含まれるのだから。


勿論、どうせそうなる運命なのだから、何もしても変わらない

なんて発想も的が外れている。

高々人の分際で先に運命をわかった気に成っているのがすでに読み違えている。

そもそもまぁそういう発想するやつは

運命なんて関係なくても結局何かしら諦める理由をつけて何もせんのだろう。

さっきも言ったように、過程も運命に含まれる。

連続した事象を切り取ってその一部に運命という言葉を宛がっているだけなのだから

過程を軽んじた行動の連なりの先には勿論、相応の結果が

過程を積み重ね行動したならば相応の結果が、

繋がっているだけの話だ。



運命の出会い、ってのも正直、的が外れている。

特定の人との特別視したい出会いを運命の出会いというなら

それ以外の出会いもまた運命であると肯定するわけで

嫌いなやつとの出会いも街中ですれ違うだけの他人も運命の出会いなわけで

運命の出会いってものに神秘性はほぼ無い。

ましてそんな単語をくどき文句で使う人がいるとか・・・

ただの言葉の響きだけじゃないか。


ただまぁ、

些細な出会い一つ一つに感謝を素直にできるのなら

それはそれで運命の出会いに神秘性を感じるのは

案外的外れでもないわけだが。



運命に逆らうとか

逆らうことも勿論、運命ということを肯定するのであれば

逆らうことも運命の内。

これが逆らっているかどうかと言えばまぁ・・・言うまでもなく。

結果として運命と思われたものを覆せたとしたら勿論それは予定調和だし。

運命だと思っていたものの通りだったとしても予定調和だし。



まぁ意識すれば意識するだけ振り回されかねんものです。

どう意識したとしても、どう向き合ったとしても

運命ってものを肯定するのであれば

それは釈迦の掌の上の孫悟空のようなもの。


私としては

運命なんて

あってもなくても別に自分にはどうにも変わらないもの。

そう考えてます(ぁ


あってもなくても、

どうせ私は気の向くままに、自分のしたい事するだけ。

それが運命の内であっても外であっても

どっちでもいい(ぁ

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2010年12月15日

残すということ。

思い出。

これは人の記憶によるもの。


人の記憶というのは

時間を重ねると、気が付けば少しずつ改竄されるものでもある。


写真やビデオでそのままを残すこと

日記でそのときを記すこと

これもまた残すこと。


モノが残らなければ、人の記憶の中にしか過去は残らない

人々の記憶の中から、覚えている人が居なくなったら

その過去は、あったものかもなかったものかもわからないものになる。

それは、無かったとあまり変わらない。


自分の10世代前の人間というのが、どういう人間か

どんな人生を送ったか

具体的にわかる術はどれぐらいあるだろうか。

自分が在る以上、その人は存在したはずだ。

でも、実際にどんなかと言われると、想像してみても

具体性のある物証ががないと

わからない。

家系図なりの物証が出たとして

それを誰が書いたものだろうか

それもまた信用たるものか調べないと

確実、と判を押せるほどのものではない。


自分を軸をした過去の人物でさえ

こんなもんだ。

さらにその人には、同じ次代を生きた他人もいたのだろう。

いたはず。たぶん。

まったくわからないけど、そのはずなんだ。



私は写真に撮られるのは苦手だ。

ビデオも勿論苦手だ。

なんとなくだが

自分の姿が何か見慣れない。

いつも鏡で見ているはずなんだけどね

こう、写真とかだとついつい意識してみてしまうからだろうか

まぁ加えて、それを人に見られるもの勿論嫌なわけだが。


・・・彼女が実家にきたときに母が勝手に俺のアルバム持ち出してきたこと思い出した(ぇ



だからまぁ、どこかで思い出だなんだと言われても

気持ちのどこかで避けたいと思っているところがある。




反面。


最初に書いたように

思い出っていうのは、人の記憶によるところが強く

人の記憶というのは、無意識に改竄・捏造されていくものでもあり

不確定で不安定なものでもある。

まぁ、ある程度そうやって自分の心の負担を軽くする着色をすることで

自分を安定させているんだろうけども・・・

形状が不定形であるなら、残るもの、として何処かいびつでもある。



結婚式の話をすすめていて

スナップ写真みたいなものをとるカメラマン入れますか?

そんな話をして。

彼女は私以上に写真とか嫌がるので

はっきりと嫌がっていたが

まぁ私も実際にとられた写真をみて

撮られてる新郎新婦の顔やポーズみて、

あぁ、これは無理だなと一蹴した。

いらないって、素直に思った。



結婚して子供を作らない、という夫婦の話を聞いて

私がその選択をしたとしたら、と想像した。

年齢が40、50、60となって

それを過ぎて、自分の老いや死を意識したときに

自分を知る、次がないことを

自分の何かを持つ、次がないことを

自分が残すものが無い終わりを

どう思うんだろうかと。

ふと、何がどうという具体性は帯びないけど

漠然とした暗さ、というのだろうか

怖いと、思った。


・・・。

残したいと、思う。自分の何かしらを。

反面で、残りたくないと思う。

似て非なるものなのか、同質のものなのか

今の私には整理して考えられてはいないけど


どちらも間違いなく自分の気持ちであることは間違いない。




写真というのはそのままを写す。

・・・といいたいけどまぁ、近頃はアレも所詮画像データだから

いくらでも改竄できるわけだが

・・・それは置いといて。

そのものを切っ掛けに思い起こすそれは

多分、時間をそのまま受けて変容し続ける脳の中だけでは

思い出そうとして容易に思い出せないものなんだと思う。


事実、自分が子供の頃どんなだったか

何を考えていたかとか

そんなこと、思い出せない。よくわからない。

3男だからか知らないけど

兄たちと比べて写真も少なめ。

いや、むしろこれは私としては不平不満ではなく

肯定的なことなんだけど。

まぁそれ故に、思い出しにくい部分というのも多いかもしれない。



多分これは少し、心境の変化だろうと思う。

写真、というものに頼って

自分の過去を補いたい。

そんな気持ちが少しできた。





・・・残したいだのなんだの

思考が随分と老けたもんだ(苦笑

29の考えることかよ(笑

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posted by ぽて at 02:21 | 兵庫 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | 相・映・想・記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月09日

悩み方を悩むのも本末転倒のようで一興かと。

悩む。

これ自体は私は悪いことだとは思わない

むしろ良いことだと思う。

目の前にある選択すべき事象に対して

様々な情報から様々な効果を想像するのだから。


ただまぁ、本当の意味で悩む、ということは

私が思う限りでは少ないと感じる。


悩む、ということに否定的な人はこういった意見を持つ人もいるのではないだろうか。

悩んで足踏みするぐらいならとりあえずやってみろ、行動を起こせ。

尤もだ。

馬鹿の考え休むに似たり。

尤もだ。


私も割りと考えてもどうにもならんことは

考えない方向に頭がシフトしやすい。

結構割り切って行動することもある。

このブログでグダグダと小難しい理屈を並べるので

人によっては私のことを理論派だと思う人も少なくないかもしれないが

私は結構、自分では気分屋で感覚派だと思ってる。

決断は割りとなんとなくで決めて

それに沿った小理屈を取り込むだけで。


まぁ、誰しもが大なり小なりしていることなんだろうが

私は端から理屈がついてくるという気でやっているところがある。

そういった意味ではあまり悩まない方だ。


さて話は変りますが。

悩むことは良い事だと思うと言い。

その反面で、悩んでる暇あるなら行動しろも尤もと言う。

私のそれが両立していないような理屈だが

それをどちらもと思うにはそれなりの基準のような物がある。


悩む、というのは私が思うに

目の前にある選択に対して決定をせずに考えを巡らす状況だろう。

要点としては、

・決定をできていないこと。

・その事象にたいして複数の選択肢、あるいは具体策があること。

・またそれについて現在進行形で考えていること。



例えばだ。こんな状況はどうだろう。

○○をしたいと思っている。

ただその反面でリスクも大きいし、それに専念すると人生の修正がきかない。

自分には経験も情報も少ない上に、責任も重いので判断しきれない。


要するに、ある程度気持はどちらに向いているというそれはあるけども

決断には至らない。

こうなると、決定することが、怖い。

決定しないままの方が今の自分にとっては無難な状況が生まれる。

この状況の要素としては

・決断をできていない。

・その事象にたいして複数の選択肢、あるいは具体策があること。

この部分は一致する。

また、これについて現在進行形で考えているかというとまぁ怪しい。

自分で考えているつもりでも、決断が怖いのなら半面で決定しない方向に考えが傾くわけで。

考えるは考えるでも、ベクトルが違ってくる。


事実自分では決定できてない以上考え中なわけだから、

人から聞かれれば、悩んでいると答えることだし

傍からは見分けのなかなかつかないものだ。

まぁ、見分けがついても安易に見分けが出来たと思うべきではないのだけど。


私としてはだ。

決定しない方向に考えを巡らすこれを、悩むとは思わないのだ。

これを悩むと言うなら、まさに悩むぐらいなら行動しろと。



こういう決定しないで置くというのはその場では選択肢を複数持てるわけで

タロット占いなどでお馴染みの大アルカナでいえばFOOLのような要素だと考えていただくと面白いかもしれない。

無論、正位置も逆位置も込みで。

自分の先を決め付けずに置いておくという意味では悪くないかもわからないが

まぁ長い眼で見れば非建設的な状況。

決断しないというその場判断をしていることに気づかないわけで。

決定せずとも結局時間が進んでる以上、それはその人の選択にかわりない。

まぁまずこれを非建設的な状況だと自分で素直に思える人はまず悩まないわな(笑


まぁ、私としてはこの

決定しない方向に思考が向いている考え方を

悩んでいる、と分けて考えているわけで。



臆病ゆえか、無責任ゆえか、優柔不断ゆえか、漠然と自分を過信しているかは人それぞれだけど

人は決定する気持ちが無ければ、

問題に対しての意識が大きい時は腹が括れていなければ

多くの人は、悩んでいるという姿を被ってことを先に延ばします。

同じ選択肢がまた選べると勘違いしたまま。


こういう言い方すると、怖いもんでしょ?
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posted by ぽて at 02:21 | 兵庫 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 相・映・想・記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする