2018年10月31日

小学一年生と死生観

息子との話が発展しまくった話。


息子の疑問は

蛇ってなんで足が無いの?

この問いに対して二つの答えを示す私。

得意な細い所を移動することを考えるとお腹の動きで移動できる蛇からすると

脚や腕は邪魔だから、そういう進化をしなかったか退化したか。

っていう話と

とある神話では楽園にいる人間を騙したことの罰で神様に足のない姿にされたという話と。


息子は喰いつく。

喋れない蛇が人を騙せるわけがない。

そんな話信じる人がいるなんておかしいと。

神話のお話の信じる信じないの説明になってくると

宗教というものを人がどう信じるか、宗教が人に魅せる信憑性真実性について私なりに語る。


人が各々正しいと信じたいことがあること、

正しいと言われることをして安心したいこと、

親しい人が死んだ後どうなるかについて救いが欲しいこと、

人間いつか死ぬけど、自分が死んだ後にどうなるのかわからないから安心が欲しいこと、

宗教によってその答えは違いながらも

各々の出す答えが正しいか間違ってるか別として人の気持ちとって信じることによって救いになること。

要するに、不安をぬぐうために信じたい。

ただ人も単純に言われたまま信じられるわけではないので信じるに足る何かが欲しい。

宗教であればその掲げる神の信憑性であったりとか、そういう話に。


どちらかと言えば客観的にみると無心論者に近い妻は

死んだ後は何もないで。とざくっと息子にいう妻。

思考の動作があくまで身体の信号上の情報であり脳の処理である以上、

身体の機能の止まる死は何も無いと思うことも感じることすらもないと考えるのが自然。


でもまぁ、それは怖いと感じることだし、

それをそのままの理解を受け入れられるほど人間タフな人ばかりではないので

死んだ後の答えに安心が欲しいんだということを重ねる。


いつか死ぬといことが怖いと意識する息子。

まぁだからって落ち込んでて何かなるわけでなく。

それだったら死ぬときにどう思われていたいかを考えて生きようって話をしたり

落ち込んだまま生きても楽しく生きてもいつか死ぬんだから

楽しい方向のことも考えようぜって話もしたり。


なんともまぁ

その日は気持ちが上がらないまま就寝する息子。

お父さん後ろから添い寝。

腕をぎゅっとされる。


・・・お父さんは死ぬの怖いし嫌だし、

時折そのことで漠然とどうしようもなく怖くなるときも未だにあるけど

息子、自分の次が生きている姿を見て

なんだか少し気持ちが救われてもいるんやで。


きっとまだそれは息子には遠いお話。
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posted by ぽて at 14:26 | 兵庫 ☔ | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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